カンボジア人の尊い善意に感謝
二〇〇四年一月一七日、カンボジア王国の地に散った、一ノ瀬泰造さん(武雄市・当時26)の記念碑を訪ねました。
彼はフリーカメラマンとしてカンボジア内戦を取材中、
一九七三年十一月にアンコールワット遺跡群北方のセムリアプ郡トロールトタン村で、
ポルポト軍に拘束され不慮の死を遂げました。
彼は最前線からレンズを通して「戦争と平和」を世界に訴えた人です。
草原にぽつんとあるカメラを模した記念碑はきれいにしていました。
きれいなわけは、おじいさんからいきさつを聞いていた、
彼の孫にあたるコン・トウンさん(27)とコン・タイさん(22)兄妹が、
泰造はカンボジアのために身をささげたと、二〇〇一年に記念碑と小屋を作ったからでした。
年間に一千人ちかく訪れる日本人のために管理をしていたのです。
遠くカンボジアまで日本人が訪ねてくること。
記念碑を訪れる人たちのため、兄妹が見守ってくれていることにとても感激しました。
小屋のサイン帳には
「泰造の生きざまに感動」
「生きる力をえた」
「日本人を誇りに思う」
「人生を考えなおす」など記帳され、
多くの日本人に感動と勇気をあたえていることに驚きました。
片時も記念碑から離れず、尊い自らの時間をささげ尽くすことは並大抵ではありません。
若いカンボジア人兄妹の善意に心から感謝した一日でした。
2004年2月11日(水) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
人情を伝える父母らの電報
2003年12月29日
わが家の年末大掃除は十二月はじめでした。
いまはゴミとなった品々を紙ケースにつめ清掃センターへ運ぶことになりました。
トラックの荷台に無造作に放りこむ紙ケースのなかに、手紙ばかりの紙ケースが目にとまり、
のぞいてみて驚きました。
封書やハガキなどが保管された紙ケースでした。
いまとなっては大変な貴重品です。
昭和四十年当時、義母はお産看護に佐賀から遠い広島まで汽車に乗ってきてくれました。
電話がない時代、義姉が出発間際に打った電報
「ハハ デジマニテタツタノム シツ」があり、
もう一通は長男誕生を知った実父が打ったお祝い電報
「オトコヲヨロコブ スミヤカナオヒタチオイノル」でした。
目立つのは義母が、娘の産前産後を気遣うたくさんの封書でした。
出張の多い留守を預かる娘に
「留守中は心細かろう」
「博多ならゆくが広島まではゆけない」
「子どものへその具合は」
「病気に気をつけよ」
「油断して失敗しないよう」
「保存のきく里芋を送る」などなど、
母娘の互いの息遣いがこちらに伝わってきました。
双方の両親はすでに他界しました。
生前に文で伝えた気持ちの交流は人間の歴史として宝物です。
ケータイやe−mail花盛りのいま、人情や感情を記録して伝え残すことができないことを心配しました。
2003年12月22日(月) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
最後まで走りぬく姿に感動
2003年10月24日
十月十九日、三瀬村主催の「ざっといかんばい林道マラソン」に、サポーターとして参加しました。
秋晴れのなか一五〇名のランナーが、42.195キロ、標高差300mのコースに挑戦しました。
遠くは東京から参加していました。
私は、井手野給水所で待機しました。
テーブルにおにぎり、梅干、酒まんじゅうなどのふるさと産品と、
飴玉、栄養ドリンクなどがならべられ、湧き水は嘉瀬川の源流といわれ美味しさが違いました。
なかでも地元の暖かい思いがこもった酒まんじゅうが光っていました。
ランナーのなかに、日本シリーズで阪神が敗れた悔しさで二日酔いした男性や七十一歳の男性、
六十代の女性、柳川春己さんら盲人ランナーの男女二組ががんばっていました。
あと5キロでゴールという最後の通過地点では、吹きでる汗をぬぐいながら「ありがとう」と、
口々に給水所の皆さんにペコンと頭をさげ、大きな声援と拍手を背中に走りさりました。
沿道で声援を送っていた人たちは「こんなに賑やかなことは久しぶり」「来年もやってほしい」と、
楽しかった秋晴れの一日を振り返っていました。
テントを始末したあとを一人のランナーが走っています。
「乗せてゆきましょう」という私の言葉に、「もうそこです、大丈夫」といわれ、
しばらくして誰もいないゴールへ両手をあげて走りこみました。
最後まで走りぬく彼の姿にすっかり感動しました。
2003年10月23日(水) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
約束果たしたトマソン選手
2003年8月29日
昨年のワールドサッカー世界大会。
デンマークは和歌山県がキャンプ地でした。
一般公開されたチーム練習のあとは地元の子供たちとの握手会がありました。
一人の少年がトマソン選手の前にきて、意を決したようポケットから一枚の紙を彼に渡しました。
それは先生が書いた英文で、こう書いてありました。
「僕は小さいときから耳と口が不自由で、話すことができません」
「でもサッカーが大好きです」
「トマソン選手がんばってください」。
するとトマソン選手が手話で話しかけました。
「僕にも、君と同じ試練をもっている姉がいます。姉のために手話をおぼえました」
「君の試練はとても辛いものだと思います。でも、君と同じように、君の家族も、その試練を共有しています」
「君は一人ぽっちでないことを理解していますか?」。
少年がコクリとうなずくと、トマソン選手は彼の手を強く握りしめ、
「それならOKだ!」
「誰にも辛いことがあります」
「君にも僕にも、君のお母さんにも」。
「それを乗りこえる勇気をもってください」。
肩に手をおいた少年のお母さんは黙って涙ぐんでいました。
トマソン選手は少年と、試合で一点ゴールすることを約束し、見事に四点ゴールを決めて約束をはたしました。
福島県の知人が贈ってくれた本のなかにありました。
2003年8月29日(金) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
米国で出合った頼もしい若者
2003年8月4日
積み立て貯金を二カ年間つづけ、友人と二人で米国グランド・キャニオンへ旅をしました。
旅の途中、一人の若い日本人女性に出会いました。そのお話です。
フロントで拙い英会話を駆使してやっと宿泊予約を終えたとき、
係が「このフロントにも日本人がいる」といわれ「明日は出勤するよ」といいました。
三日間も日本人にあっていません。とても嬉しくなり、
よく朝、彼女の出勤をまってホテル周辺のことを聞こうと心まちしていました。
若く美しい彼女はいろいろと質問にていねいにゆっくりと答えてくれました。
日本人観光客は団体客がおおく個人客はすくない。
観光スポット、買い物、観光バスのコースは?など沢山教えてくれました。
名前は鹿内さん。
出身地を尋ねたら千葉県柏市といわれ、私たちは佐賀県と答えたときです。
「私の母は佐賀県小城町出身です」と、まったく予想もしない返事が返ってきたのです。
よく母に連れられて佐賀へゆきましたよと笑顔をみせ、
「よかやんね〜」という佐賀弁まで飛びだしたのです。
聞くと米国留学が希望で、いまアルバイトしていますというのです。
将来の夢は環境問題を手がけたいと目を輝かせました。
お母さんが佐賀県人。
いま若者が問題といわれていますが、しっかりした若者をみてとても頼もしくなり、
佐賀の梅干を手渡して別れました。
2003年8月4日(月) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
風に飛んだ大切な帽子
2003年4月19日
三月も終わるころの夕暮れどき、
スリランカ国ラーガム(人口20万人の街)から佐賀大学に留学していたインディカさん(37)は、
アルバイト先にむかって自転車で佐賀大学南の交差点を、東から西に急いで渡っていました。
当日は強い風が吹いていました。
彼が交差点を渡りきろうとしたとき、いちだんと強い風が顔を吹きあげ,
彼のかぶっていた帽子が吹き飛ばされ、交差点の地面に落ちてころがりました。
スリランカからかぶってきた大切にしていた帽子です。
彼は自転車をとめ一瞬ふりかえり、地面に落ちた帽子を目で追いました。
車に踏まれてしまうと思ったのです。
そのとき、信じられないことが起きました。
それは、南北から交差点に入った車が急ブレーキを踏んで停車してくれたのです。
一台は路線バス、一台は乗用車でした。
彼は、車の前に落ちている帽子に駆けよって拾いあげ、急停車してくれた車に深々とお辞儀をしたのでした。
なんとやさしい運転手さんたちだろうと感謝したというのです。
夕暮れのラッシュどきに同じことがスリランカで起きたなら、
帽子はタイヤの餌食になっていたと彼は話してくれました。
そして佐賀の人々の優しさと温かい人情にふれ、いつまでも心に残る思い出となりましたと、
その感動を伝えてくれました。
2003年4月18日(金) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました
手術を前に書きのこした日記
2003年2月2日
いまから三十七年前、天草で生まれ育った後天性心臓病を患う十七歳の少女がいました。
昭和四十年代は日本が高度経済成長にむかったころです。
少女は小学三年生で発病して入退院を繰りかえし、
最後は久留米市内の病院で念願の大手術をしますが願いはかないませんでした。
大手術までの八ヶ月間に、少女は心を洗うような美しい日記を書きのこしました。
天草をはなれ、父母と三人の弟や級友たちと別れてくらす辛く淋しい病院生活のさま、
悲しさにうち勝って早く退院したいと願う決意などが書いてあります。
お小遣いがあと一円になり心細くしていたら、直後にお母さんから送金の電話があったときの喜びよう、
お父さんが年末に病院にきてベッドで一緒に新年を向かえたときの喜び。
手術費用が二十万円ときかされ高さに驚き、ご恩返しは元気になること、
親孝行を一杯したいと思ったことが書いてあります。
大手術を前に見舞ってくれた家族のうち、末弟の上着のひじがほころび、
高校進学した上の弟に腕時計がないことを自分のせいだとすまなく思います。
私は、本「十七歳 生と死をみつめて」を読んで大きな感動が胸をつきました。
粗末にしている人の心が書きのこしてあるからでした。
問い合わせは古賀さんまで・0952−51−2110
2003年1月30日(木) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
カンボジアのせんそうを語る
2002・12・19
カンボジアのせんそうは、20年間まえからひきずりました。
せんそうはおおくのひげきを、あとのじだいのひとに、のこしました。
それらはこわいですから、せんそうにはあいたくないです。
せんそうのおわったらあと、そしてじらいで、てやあしをうしなったひと、こじ、みぼうじんをのこしました。
まち、スーパー、たてものや、うちやおてらなど、せんそうではかいされました。
今まで私はそのせいかつのむずかしいひととあって、そのひとたちは、みんな、
たてものや市場やレストランなど人のおおいところで、よるべのない人やものごいなどになりました。
そのもんだいは、カンボジアがだんだんだらくしますね。
だから私たちはみんなおなじ人ですからみんな、あいさなければなりません。
ゆるさなければなりません。
たいせつなこと、いろいろなひとがいること、あなたとはちがうひと、
お金がないひとをりかいすること、そういうことをしることが、とてもたいせつです。
この作文は、カンボジア教育支援フロム佐賀が支援する、
カンボジア・日本友好学園のある生徒のひらがなで綴ったものです。
たいへんな成長です。
学園建設資金カンパの津軽三味線チャリティコンサートは、
みなさまの温かいご支援で無事に終えました。
ほんとにありがとうございました。
2002年12月18日(水) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
目にみえぬ先生たちの汗
2002・11・20
一年間、K小学校の学校評議員をさせていただき、いろいろお話をお聞きました。
週五日制、総合学習時間の新設などから教科学習時間が少なくなり、
先生方がたいへんご苦労されていることをしりました。
町内に、校歌に歌われた高取山があります。
いまはすっかり忘れさられた山です。
校長先生のアイデアで五年生八五名が、その山に登ることになりました。
事前に教務主任と先生数名が登山を試み、ルート、昼食、トイレの場所などを調べました。
山道は途中から草ぼうぼう。
父兄会の人たちが、道の下草刈りをして、トイレまでの道は先生たちが草刈をしました。
ポータブルトイレを設置したとお聞きしましたが、私の小学生時代とは隔世の感じがしました。
いよいよ登山の日がやってきました。
往復12キロの道への挑戦がはじまりました。
途中にある男女神社では、N管主さんが生徒たちに、神社のお話とミカンをふるまってくれ、
国有林の管理をしているHさんが、木々の名前と植林の大切さを説明してくれました。
やがて頂上にたったみんなは、
眼下にひろがる佐賀平野と有明海の大パノラマに大きな歓声をあげました。
私たちは最近、自然からやや遠のく感じがします。
そのようななか、高取山に挑戦した学校、父兄会、近隣にすむ人たちの、
尊い額の汗は、登山した生徒たちの心にしみたことでしょう。
2002年11月20日(水) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
わが子を思う親心は深い
2002・10・17
五十五歳になるお母さんの行動が、最近どうもおかしいと夕飯どきに家族が言いだしました。
毎日、お母さんは決まった時間になると家族に見られないようにそっと出かけていたのです。
みんなが「どこに行ったの」と尋ねても「ちょっとそこまで」と返事が返ってくるだけでした。
パートかな、近所のお手伝いかな、お友達と趣味の会かな、
家族はそれ以上お母さんを問い詰めませんでした。
その後も行動は変わらないまま月日は過ぎていきました。
二カ月ほどたったある日の夕食どきに、お母さんはみんなに一枚のカードをかざして見せました。
それは真新しい自動車の普通免許証でした。
みんなはあっけにとられました。
五十五歳の母親が、まさか自動車学校に通っているなんて予想もしていなかったからです。
家族の驚きをよそに彼女は静かに話しだしました。
「母さんでも、この年で頑張ったら資格が取れたのよ」
「母さんが資格を取ったら、みんなも頑張るだろうと思ったからね」。
彼女は最後に
「若いうちに資格を取っておきなさい、将来きっと役に立つから」
と励ましたのです。
「あれから五年、母は六十歳になりました」と久留米市内に住むKさんが話してくれました。
2002年10月8日(火) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
古湯映画祭で出会った人
02/09/26
初対面のKさんのことです。
「お幾つですか」と、お尋ねしたら「100−31ですよ」と、なんともユーモアあふれる返事に、
わたしは戸惑い、回りからはどっと笑い声がわきあがりました。
古湯映画祭の昼食どきのことです。
「100−31だと若く感じるでしょう」と、あたりを見ながらいたずらっぽく笑っていました。
映画は人生に生きる勇気と喜びを与えてくれます。
古湯では多くの人たちとふれあい、ともに語りともに笑い、人のぬくもりを感じることができます。
とくに佐賀弁は心になんとも言えないいたわりを感じますねと話してくれました。
映画祭に参加された俳優や監督さんともツーショットを撮り、
それがアルバム数冊になっているとのことです。
Kさんは、四年前に最愛の奥さまを亡くされ一時は気が滅入って悄然となったのです。
しばらくして、「このままではいけない」と思いなおして、
大好きなドライブで一人旅を思いたち、同時に古湯映画祭に参加することにしました。
ですから今回が四回目ですよとしんみり話していました。
別れ際に「できるだけ奥さまと一緒の時間をたくさん作りなさい」と助言をいただき、
Kさんのひと言だけに胸を強く打ちました。
古湯映画祭はそれとなく心を癒してくれているのです。
2002年9月26日(木) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
不要な文豪具が役にたった話
02・08・15
「燃やすごたんないくいさい」と、引きとった文房具が、お金となり世界で役立ったお話です。
中原町内に住むTさんは、近くの文房店が閉店するのをたいへん悲しくみていました。
それは不要になる文房具を燃やしていたからです。
もったいない、ほかに役立つことはないものかという思いで一杯でした。
そこで「燃やすなら・」と引取りを申出ました。
さてTさんも、引きとった文房具の引当てさきはありません。
市役所の記者室で話したけれど、らちがあきません。
この話を聞いた町内の佐賀新聞販売店主Oさんが、
カンボジア教育支援に役立てたらと電話をいただいたのです。
文房具は軽四トラック一杯ありました。
文房具の一部は、さっそくお化粧され翌日のバザーで出番がきました。
消しゴムつかみどり、子供は五十円、大人は一〇〇円と宣伝したら、
小学生から大学生まで列に並んで買い求めてくれ、おかげで一日の売上金が5千円になりました。
日本円五十円は、カンボジア・リング村の子供にとって五日分の食費にあたります。
売上金はまとめられ、リング村で中学生の学資として役立ちます。
Tさんの、モノを大事にするという思いが実りました。
Tさんありがとうございました。
2002年8月15日(木) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
アメリカを一人旅して
02・07・01
先日、ロスアンゼルスにゆきました。
ダウンタウンから地下鉄(メトロ)に乗り、ユニバーサル・シティ駅までゆくとき一人の黒人と出会いました。
彼は四十歳代で勤め帰りの疲れた顔をしていました。
彼は私の求めに快く応じて写真に収まってくれ、二人は地上から階段をつたって地下鉄の停車場にむかいました。
そのとき私はキップを購入していないことに気づき、急いで階上にある券売機まで走りました。
その間に電車が一本通過しました、
私は、彼はその電車に乗っただろうと思いながら階段を下りてゆくと、
彼は電車に乗らずに、ニコニコしながら私を待っていたのです。
出会ったばかりの見知らぬ日本人に示した友情あふれる行為です。
このようなときに人間は胸をジーンと打たれます。
もう一つは、やはりダウンタウンから執着駅・北ハリウッド駅までゆくときのことです。
所要時間は三十分。私は緊張と疲れから電車のなかで眠りこんでしまいました。
終点までの安心感もあったのです。
夢のなかで誰かが左腕を軽くトントンと叩いています。
ハッと目を覚ましたらそれは夢のなかではなく、まさにそこは終着駅だったのです。
あたりを見たら人気のない電車のなかに私と見知らぬアメリカ人女性が残っていたのです。
私が目を覚ますと中年の女性は安心してそそくさと電車を降りてゆきました。
旅人によせる暖かい思いやり。
二つのことは、アメリカ旅行の印象をとっても良いものにしてくれました。
2002年7月1日(月) 佐賀新聞 「ひろば」に掲載されました。
素晴らしい青春と日本人の心。
02・04・24
四月はじめにカンボジアから、二人の日本語教師があいついで元気に帰国しました。
その一人Sくん(22)のお土産話をご披露いたします。
彼は甲子園をめざした元高校野球選手でした。
彼はカンボジア・日本友好学園の中学生に、バレーボールを教えて郡大会出場を目指しました。
毎日、夕方遅くまで激しい練習を重ねてずいぶん強くなりました。
いよいよ郡大会に出発する日がやってきました。
彼は選手たちに応援団の声援が、どれほどおおきな励みになるか野球を通して知っていました。
彼は考えたすえに自費で応援団を連れてゆくことを決心して、財布をはたいて
五台のバイク付きリヤカーを借り受けました。
リヤカーの荷台に二十人づつ百人の応援団を編成して、当日の朝六時に会場を目指したのです。
田舎に住む生徒たちは都会へゆくので大喜びです。
カンボジアの地方道路は一言でいえば大変な悪路です。
行き交う車は砂塵が舞いあげて疾走し、目を開けておくことができません。
荷台の生徒たちはクローマと呼ぶスカーフを顔にあてて砂塵から身を守ります。
会場まで十五キロのデコボコ道を約一時間かけて到着しました。
郡大会に応援団を連れてきたチームはありませんでした。
二百人にふくれあがった応援団の大声援を受け選手たちはよく頑張り、
得点のたびに円陣をつくって両手を突き上げて喜び踊り、
次々と相手チームを倒してついに優勝したのです。
私は、大事な青春を人の喜びのために使ったSくんに、
素晴らしい日本人の心が宿っていることを教えられすっかり感動しました。
2002年4月24日(火) 佐賀新聞 「ひろば」に掲載されました。
夢と一緒に高校建設が進む
02・02・13
「私が死んだらお墓はプノンペン市内には造らない」
「カンボジア・日本友好学園のそばにお墓を造り、生徒の元気な姿をいつまでも見ていたい」。
私たちがカンボジア・リング村に進めている中高一貫校の代表者コン・ボーン(65)さんの言葉です。
いまカンボジアは乾季で好天つづきです。
高校(八教室)建設は基礎と壁工事を終えて、屋根を乗せる段階にきて全体の七十%が完成しています。
佐賀県内をはじめ全国から寄せられた真の善意が形をかえて、ことし四月には青空のなかにさんぜんと
その雄姿を現します。
現地では日本人男女ふたりが日本語を教えています。
これまでに五人が、日本では考えられない辛酸な生活体験に耐えて頑張ったかいがありました。
生徒全員が片言ながら日本語を話してくれます。
ある十五歳の少女が描く夢は医師になることです。
理由は家族が病気になったとき何もしてやれず悔しかったのです。
目の前で命が消えてゆくのを見る悲しさがバネになりました。
少女が話すたどたどしい日本語一言ひとことが心を揺さぶり、感動が波のように胸に迫ります。
中学生たちの夢は、男子は医師、通訳、先生の順、女子は先生、医師、通訳の順でした。エンジニア、
政治家、農業、警察官、宇宙飛行士、スターもありました。
完成まじかな高等学校の校舎をみながら、みんなの夢が大きく膨らんでゆくのが手にとるように分かりました。
2002年2月13日(火) 佐賀新聞 「ひろば」に掲載されました。
ことばに見る人情産地さが
01・11・21
「あなたの国で、困っている日本人を見たら助けてね」。
私は、なんと素晴らしいひと言だろうと感心しました。
私どもNPOに、カンボジアからMrピア・カメラが来ていたことは書きました。
彼は、さる十月三十日に福岡国際空港から三ヵ月ぶりに、家族が待ちわびる母国に飛たちました。
聞くところでは、片言の日本語で佐賀での楽しかった出来事を話しているようです。
ボランティア団体・こんちワークの皆さんの語学研修が、もうカンボジアで開花しています。
彼の滞在中に、いろいろとご支援をいただいた方々にあいさつでお伺いしたときのことです。
佐賀県国際交流協会は、佐賀を訪れる外国人の相談窓口になっています。
分らないこと、不安なこと、困ったことの相談がひっきりなしにあるようです。
アジアからきた留学生が、言葉のかべを乗越えるには多くの困難が伴います。
彼らは、アルバイト、宿泊アパート、買い物など、異国での不安な生活体験を通して、
見知らぬ佐賀の人々の心からの親切さがひときわ身にしみると言います。
やがて留学をおえて帰国するときがやってきます。
交流協会を訪れ、彼らは異口同音に「受けたご恩をお返ししたい」と言うそうです。
そのときに係の人が「恩は返さなくて結構よ」と、さきほどの言葉をそえるのです。
これこそ人情産地さがだとたいへん嬉しくなりました。
2001年11月21日(水) 佐賀新聞 「ひろば」に掲載されました。
友好の花咲くボランティア
01・10・01
私たちは、カンボジアの首都プノンペンから九十キロ離れた田舎に中高一貫校を建設しています。
来年五月に念願の高等学校を完成させようと努力しています。
現地では若い二人の日本人男女が、教師として生徒たちに日本語を教えています。
その学校から八月七日に、若いカンボジア人が佐賀に招聘されやってきました。
彼はこの中学校の教頭先生で、名前をピア・カメラさんといいます。
来日目的は、日本語の勉強と日本社会の見学です。彼はまったく日本語が分かりません。
その彼に六人のボランティアの皆さんが二人ペアになって、月曜日から金曜日まで毎日二時間ずつ
日本語を教えていただきます。
ボランティアの皆さんもカンボジア語が分かりません。
ですから教える努力もたいへんです。
大きく書いたひらがなカードとカタカナカードを、一枚一枚読み方を覚えさせ、
ある品物を指さして何度も繰り返し発音を教えます。
双方の我慢と根気には頭がさがります。
さて、来日して一ヶ月が経過しました。
カメラさんは、いまは黒板にひらがなをたどたどしく書くことができるようになり、
また、書いた文字を大声で読めるようになりました。
先日、あるパーティでカメラさんは自己紹介をしてくれました。
原稿用紙を見て恥じらいながらトツトツと読み上げる懸命な姿にすっかり感激しました。
彼は、十月末に帰国します。
ボランティアの友好の花が咲くのもまもなくです。
2001年10月1日(月) 佐賀新聞 「ひろば」に掲載されました。
甲子園の真髄に満足・・
01・08・31
神埼高を応援のため生まれて初めて夏の甲子園にゆきました。
春夏、甲子園出場という快挙と輝くナインへの尊敬、大観衆のなかでの鮮やかなプレーを
ひとめ見たいという思いからでした。
初戦突破を願いに一球にこめた試合は、東東京代表の城東高を沈めて実現、
青森代表の光星学院との試合は痛恨の一球に惜敗しました。
しかし、私は各選手が役割を忠実に守って見せた高校野球の真髄に満足しました。
練習量がすべてだと雨の日も練習を休まずに、選手は泥にまみれたというど迫力。
トップバッターは必ず出塁するという使命感、次打者はバントで必ず走者を進塁させるという責任感。
二人しかいない左投手が、控えにいても自分がマウンドのつもりで力投を支えたという友情。
作詞家の阿久悠さんが、スポーツ紙に寄稿した一部をご紹介します。
「『天才もいいけど』神崎高の諸君へ言葉を贈りたい。最も高校野球チームらしく、
最も高校野球を大切にする、心と体の野球チームだから、ぼくもまた、心と頭で詩を書く。
甲子園は天才を待っているが、甲子園は努力で磨いた普通をいちばん待っている。
自分の汗の量を知る人、自分の涙の重さを知る人、自分の夢の大きさを知る人、
自分の心の強さを知る人、そんな人を待っている。
それが諸君たちだ」。
素晴らしいメッセージです。
今年は例年になく暑い夏でした。
その思いと一緒に神埼高の甲子園も胸にしまっておきます。
2001年8月31日(金) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
熱いうちに味噌汁を届ける
01・07・7
群馬県高崎市内に住む五十歳代のSさんは、社会福祉関係に勤務して老人介護サービスの
ヘルパーとして働いていました。
しかし、そのヘルパーもサービス内容の限界を知り、もっと自分なりに納得のゆくサービスをと願って、
三十人の仲間を募り、二十軒余りのお家に自分流のサービスを提供する組織を立ちあげました。
決められたサービスでなく、相手に気持ちよく心からのサービスを提供するのが目的です。
ひとつの例は、「熱いうちに味噌汁をとどける」という使命感です。
そのようなわけで決められた介護サービス以上のサービスをしてゆくので赤字が続きます。
Sさんのお家を訪ねた人が驚きました。粗末なふた部屋に母子が住んでいたからです。
ある和尚さんが、いつも決算期は赤字だということを聞いて、その赤字を補填しようと手助けを申出たのです。
その申出を受けたSさんをはじめ幹部の方たちは、涙をボロボロ流しながら喜んだというお話です。
私は、新聞紙上で見る高齢者比率が、総人口の十七・五%という記事と並んで、
お年寄りをもっと大事にしようとする組織が生まれていることを知りました。
なんだか救われた気持ちになったのです。
2001年7月5日(木) 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
世界に遅れる日本は危機的
01・03・15
先日、ソウル近郊の工業大学で講義をしているK助教授(45)から、六年ぶりに佐賀にきたから会いたいと電話がありました。
Kさんは、佐賀大学大学院で工学博士号を取得して帰国していました。
話題は、当然のように韓国と日本の近況です。
Kさんが話したなかで、強烈な印象を受けたことが二つありました。
一つは電話の市外局番号のことです。
韓国には、市外局番号は十局しかないというのです。
人口は約四千五百万人です。
Kさんの住む街は、人口約七百万人ですが市外局番号は03だけというのです。
私はすっかり感心しました。
日本の市外局番号ですが、電話帳を見たら、その数の多さに数えるのを途中で止めました。
佐賀県でも局番号が七局あります。
まだ驚いたことは、韓国はダイヤルするとき9ケタです。
日本は10ケタです。
携帯電話は11ケタです。
八割の人が電話を使用するとすれば、とても高い社会コストがかかっていることに気づきました。
二つ目は、大学教授のサイドビジネス制度です。
会社を経営する、会社顧問をすることが認められていることでした。
社会経済の実態を生徒に教えるために兼務を認めたという精神です。
最近、日本でも認められましたが、その実態はどうなのでしょうか。
Kさんも、自営会社と会社顧問をしているというのです。
話しを聞きながら世界のなかで、立ち遅れ感が見えてきて、危機的な日本を感じさせられました。

先日、紀尾井町から八重洲口までタクシーに乗りこみ東京駅ちかくまできました。
昼時の駅の周辺は、食事にでた人たちで道路はあふれんばかりです。
とある大手銀行前ではなぜか、デモの集団がのぼりをたてて気勢をあげていました。
ある中国人留学生が、東京で感じたことは「日本人の顔はみな同じに見える」という興味ふかい話をふと思いだして、
見るともなく歩く人たちの表情を見たら、目が動いていないのです。
歩く目の前の一点をじっと見ながら歩いています。
顔の表情は目にあるのですが、好奇心にあふれたくるくる動く目には出会いませんでした。
私「ゆとりがないんですかね」
運転手「ゆとりとは違うみたいですよ」。
私「なんだろうね」
運転手「いまは人のことは、かまっていられないのですよ」。
私「それは情報の川を渡るのに疲れているからでしょうか」
運転手「そうですよ」。
私「みんな、雑多な情報の川を泳ぎ渡るのに精一杯ですね」
運転手「そうそう」。
私「みんな押し流されまいと一生懸命ですね」。
会話はそこで終わりました。
私はお礼をのべ料金を支払い駅に降りたち、改めて車中での会話を考えてみました。
おぼれそうな人を見たら「心配するな」と助け、悪事を見たら、「やめなさい」というべき立場の大人が、
やはり情報の川のなかでは泳ぐことで精一杯なんでしょうか。
食うことに追われた時代とは違った、別の時代が到来しているのではないかと感じました。
2000年6月28日 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
先日、カンボジア人コン・ボーン(63)さんと山川由美子(26)さんが、佐賀でカンボジア教育支援をしている
ボランティア団体へあいさつにこられました。
その山川さんのことです。
山川さんは千葉県出身です。
日本の大学を卒業後イギリスの大学院で、開発途上国での教育開発の勉強をしています。
カンボジアで一年間の教育実習中に、佐賀のボランティア団体と出会ったのです。
彼女は電気、水道、電話もない田舎での生活は、自分と真剣に向きあう絶好の機会だったと語ってくれました。
中学校で日本語と英語を無心になって教え、一年間で生徒たちは「おはよう」「ありがとう」「さようなら」など、
簡単な会話が出来るまでになったのです。
教育実習を終えいよいよお別れのときがきました。
全校生徒と先生たち、地域の教育委員会が送別会を開いてくれ、校長先生がお礼とお別れのことばをのべ、
生徒たちが唱歌を歌って見送ってくれました。
終りに近づいたときに、突然、きれいなシルクのサン・ポット(洋服)を記念品にさしだされたのです。
日本でいえば、留そでにあたる正装の洋服です。
生徒二七〇名と先生たちが300リエル(一三円)のお金を出しあって、先生なじみの洋品店で気づかれないように、
こっそりと作った洋服でした。
山川さんは胸がつまり号泣したそうです。
私の「実習で得たものは?」という問いかけに「自分の歩く道を見つけました」と笑顔で答えてくれました。
2000年5月24日 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
しばらくして
「おーい・・」
「アルヴィンっ・・」という声が返ってきました。
兄ライルがいたのです。
壊れかかった木戸を押し開けてまず椅子がでてきました。
つぎに両手でしっかり椅子を支えながら、ひげ面の病人ライルが出てきました。
アルヴィンはゆっくりと兄ライルに近づいて目元を見つめます。
兄の変わり果てた姿に言葉もないようです。
数十年会っていない兄弟の対面は無言のまま続きます。
お互いをじっと見詰め合い老いを確かめあったのです。
兄ライルはゆっくり目を横にそらし、アルヴィンが乗ってきたトラクターに釘付けになります。
兄は目をかっと見開きながら、アルヴィンに目をやって言います。
「あれに乗って、俺に別れを言いにきたのか・・」。
アルヴィンは兄ライルを見ながらおおきく頷くのです。
口に出さない男の思いやり。
目頭がジーンと熱くなりました。
1998年5月から7月まで、一週間に一度の割合でホームページ作成セミナーに出かけました。
セミナーには四人の女性と二人の男性が参加しました。
私より年配の男性は、大阪に住む孫とメールのやり取りをしたいと話してくれました。
女性のなかの二人は、ホームページを作成するという目的があり、一人は前回受けたセミナーの復習をかねていました。
あとの一人はイラストが描けるとかで、ホームページを勉強して、自分のイラストを活用したという希望がありました。
当時、作成したホームページを更新して新たなホームページを作成したのが、ご覧のホームページです。
完全な独習です。テキスト・・「IBMホームページビルダー2001」を新規購入して、昔とった杵柄を200%活用してできあがりました。
便利な世の中になりました。
私でも、ホームページが出来るんですから・・。
一つだけ困ったことが起きました。あまり作成に熱中してしまい肩から首からコリがとれません。
30数年前に受けた交通事故の後遺症「鞭打ち」がぶり返してきました。
しかし、肩コリのお陰で楽しいホームページが出来あがりました。
それと、「やればできる!」という自信が生まれました。人生は、なにごとも挑戦ですね。
私は、もう68才になります。
私は、もう68才になります。
趣味もなく車の運転をするだけです。タバコも酒も、遊びもしりません。
定年はありませんが、ここにきて「困ったな」と思っています。実は結婚して10年目に家内をガンでなくしました。
私が34才で家内が30才のときでした。
家内とは見合い結婚です。
若くして病魔に冒され、ガンの進行がとても早く、たいへん苦しみながら息をひきとりました。
私は家のなかのことが分からず、6才と8才の子どもをかかえて路頭に迷いました。
それからというものは、日本の高度成長期で、仕事も忙しく朝から晩まで戦いの連続でした。
子どもを託児所に預け、晩遅く子どもを引き取りにゆく毎日がはじまりました。
子どもの成長とともに入園式、入学式、遠足、運動会、修学旅行、修了式、卒業式など、仕事の合間を忙しく駈けずりまわりました。
お陰で二人の子どもは家庭を持ちいま平和に暮らしています。
再婚は子どもがいやがるので思いとどまりました。
いま一人住まいです。同居はしないつもりです。
家内が「子ども遊びにつれてって」というのに、私は「遊びはお金を貯めてからだ」といって仕事に没頭し、家内の願いを振りきりました。
家庭の楽しさも、かわいい孫の顔も見ずに逝ってしまった家内を、いま思いだすたびに不憫でなりません。
このお話は3月末の夜半に、JR東京駅丸の内で乗った個人タクシーの運転手さんの話です。
私の心は激しく震えました。
2000年3月30日 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
お母さんの55回目の誕生日がやってきました。
誕生日忘れていませんか。
きょうは、お母さんの五五回目の誕生日です。
しかし、そのことに家族の誰もが気づきませんでした。
お母さんはちょっぴり淋しくなりました。
家族を職場や学校に送りだしてから、あることに気づきました。
急いで身支度をしてショッピングセンターに買い物にでかけました。
まず指輪と小さなケーキ、そしてきれいな花束を買い求めました。
全部、誕生日を迎えた自分への贈り物です。
ルンルン気分で家路につきました。
やがて、夕飯どきになりました。
家族の誰もがテーブルについて、お母さんがテーブルにつくのを待っています。
なかなかお母さんがきません。
心配した家族が奥の部屋を振りむいたときに、ローソクに火を点したお母さんが歌いながらこちらにやってきました。
「ハッピーバースディ ツーミー」
「ハッピーバースディ ツーミー」
「ハッピーバースディ ディア ロージャー」
「ハッピーバースディ ツーミー」。
家族の誰もが我に帰りました。
お母さんの誕生日をすっかり忘れていたのです。
「おめでとう」とお父さんが、まずお母さんに熱いキスを送りました。
続いて二人の子どもがお母さんの頬にキスをしました。
それからは、決してお母さんの誕生日を忘れることはありませんでした。
私が習っている英会話のP先生は日本人らしい外人です。
他人への秘めた優しさはとても素晴らしいです。
そのP先生のもっとも尊敬するアメリカ在住のロージャーお姉さんのお話です。
2000年4月25日 佐賀新聞 「ひろば」 に掲載されました。
アルヴィンのトラクターの旅はつづく・・。
広大な緑の丘陵を道がアップダウンしながら遠く長くつづくなかを、トラクターはゆっくりと走ります。
後ろからサイクリングツアーの一行が次々に追いぬいて行きます。
長い列をなした自転車が次々とトラクターを追いぬいて行く中で、若者が走る自転車ごしに声をかけて行きます。
「叔父さん頑張って!」
「頑張れよっ!」と叫びながら走りさります。
アルヴィンは笑顔で振りかえりながら楽しそうです。
久しぶりの大冒険なのです。
サイクリングツアー一行が、一足早くキャンプ地に入ってテントを張って夜営に入るころ、
やっとアルヴィンが乗ったトラクターがやってきました。
みんなが拍手をして大歓迎します。
賑やかな夕食もおわり、あたりは夜のとばりがおりて暗くなって行きました。
焚き火を囲む輪の中のアルヴィンに若者が問いかけます。
若者「叔父さん、年をとって何がよかったの?」
ア「そうだな、いくつもの体験をつんだからな。実と殻が見分けられるようになったことかな」
若者「それなら、年をとって悪いことは?」
ア「そうだな、それは若いころのことを思い出すことかな」
アルヴィンの顔が焚き火に映えて嬉しそうです。
まるではわが子に語っているように若者に話しかけます。
若者のひとみは、アルヴィンの言葉をひとことも漏らすまいと真剣です。
人生は長いようで実に短いものです。
過ぎて見るとつかの間のように過ぎたことがよく分かります。
しかし、その人生道中にある人々にとっては、苦労がともなうだけに長く感じられます。
アルヴィンが語りたかったのはなんでしょうか。
「人生は短い、思い残すことのない人生を送ること」
「やると決めたら全力でやりぬくこと」
「目の前に起きる出来事はすべてをプラスに受け入れること」
「常に感謝する心を失わないこと」
「愚痴をこぼさないこと」
長い人生を経た者にしか分からないことがあるのです。
アルヴィンはそのことを語りたかったのでしょう。
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